ベトナム戦争後期戦略と効果(1965〜1973)

後期ベトナム戦争の前期との違いはアメリカが正規軍を導入したことである。
これで、名実ともにベトナム戦争が「アメリカの戦争」となった。


  1. アメリカ本格介入への経緯
  2. 当初のアメリカの戦況予測
  3. 北爆とその問題点
  4. 地上戦とその問題点

アメリカ本格介入への経緯

本格介入の目的
  1.  北ベトナムに南への人的物的支援及び宣伝工作をやめさせること
  2.  南ベトナム政権を共産主義に負けないよう、勇気づけること
 アメリカ参謀本部は、空爆を北ベトナムにすることで、南への浸透を抑止するとともに、 「これ以上南への支援、干渉を続ければ、多大な損害を被る」 ということを北ベトナムに思い知らせる効果が期待できるとした。
また、当時(1964〜1965年)内外からの打撃により壊滅状態に近かった南ベトナム政権及び南ベトナム人に 「アメリカは決して見捨てない」というメッセージを送ることができると考えた。
 マクナマラらは、北爆が軍事的にどれほどの効果をあげられるかについては懐疑的だったが、 対ゲリラ対策が手詰まりであり、このまま放置しておけば南ベトナムが壊滅必至の状態であったこと、 空爆という手段は、人命の面から見て被害が少なくてすむので、議会や国民の反発が小さいことを理由に 空爆案を承認した。

 実はアメリカは空爆を承認した時点では陸軍を導入する予定ではなかった。ところが、実際に 空爆を開始してから、空軍基地をゲリラの攻撃から守るために万人の軍が必要だということが分かり、 ウェストモーランド司令官はマクナマラに陸軍増派を要請。それを受けて、当初は予定していなかった 地上戦に突入することとなった。


当初のアメリカの戦況予測

 参謀本部の予測はきわめて楽観的であった。
 「アメリカの戦艦がやって来たら、連中はすぐ銃を捨てて逃げちまうさ。」
という兵士の言葉が象徴するように、アメリカが本格介入を開始すれば、その強さに恐れを なして、戦争はすぐに終わるといった楽観論が多勢であった。
 「なに、もしあきらめが悪ければ、もっと派手にやればいいのさ。」
 参謀本部の姿勢は「効果(=北ベトナムの干渉中止)があがるまで軍事規模を拡大する」 というものであった。どこまで軍事規模を拡大すれば、北ベトナムがあきらめるのか、 一体どれくらい時間とコストがかかるのか、綿密な予測はまったくされていなかった。

 文民首脳部(マクナマラ)はこの段階でいくつか戦略シミュレーションを行っているが、北爆の効果、 地上戦の効果について、良くて現状維持という否定的な見解を出している。つまり、 アメリカの本格介入は、時間稼ぎをして、北ベトナムにダメージを与えて、戦意が衰えるのを待つ、 といった、消極的な目的をとらざるを得ないもの、と考えていた。
 そして、参謀本部の提唱する軍事エスカレーションは、中国の介入、ソ連との核戦争を招く可能性があるために 受け入れられないとした。

 このような首脳部と軍部の戦略の食い違いはこの戦争を通して続くものとなる。


北爆とその問題点

 戦略爆撃というものは、相手の国の軍事基地、軍需工場、輸送路、通信施設を爆撃することで、 生産能力、軍事運営能力を低下させることが目的である。
 ところがベトナム戦争の場合次のような問題が生じた。

  1. 人員補充路、輸送路を絶つことができない
  2.  アメリカは北ベトナムの革命側への物資援助や人的補充(このことを「南浸」という)を絶つために、 ホーチミンルートなどの補給路に爆撃を加えた。しかし、北ベトナムは浮橋を使ったり、盛土を 道路端に用意して爆撃でできた穴を埋め戻すなど、補給が滞らないようにあらゆる対策をうっていた。
    また、革命側が一日あたり北から供給するべき物資量は140トンだったが、この量はホーチミン ルートの浸透能力の70%に過ぎなかった。(1966年1月24日付のマクナマラの覚書P317)  また、アメリカの情報当局が推定したところでは南への浸透者数は1965年の35000人から67年には90000人 に増えていた。(P 328)
     これらの事実は、北爆による補給路断絶が実現不可能であることを証明していた。

  3. 低工業国
  4.  発展途上の北ベトナムは経済が農業依存型であり攻撃目標があまり多くなかった。 武器に関しては北ベトナムは 中国、ソ連からの支援を受けていたため、北ベトナム国内の工場を破壊しても大きな効果を 得られなかった。

  5. 漸進的爆撃
  6.  マクナマラたちは、参謀本部の全面北爆計画に許可を与えず、北ベトナムの南部の、しかも 限定された施設にのみ空爆を許可した。これは中国、ソ連の介入を恐れての措置であったが、 北ベトナム側には、最初に空爆を受けてから、
    1. 重要な資産、貯蔵の疎開
    2. 防空組織、輸送路復旧組織
    3. 居住用地下トンネル
    等を準備するだけの時間的余裕が与えられた。
     従って、次第に目標が拡大され、爆撃地域も北上していったが、その効果は最低限に 抑えられてしまった。

  7. 北ベトナムの士気に対する逆効果
    1. 総力軍事体制移行を推進する効果
    2.  アメリカが空爆を仕掛けてきたことにより、北ベトナムは農村地域、都市部に 打撃を受けた。しかし北ベトナム政権はそれをうまく利用した。自分の農地を失った人を、 軍隊に取り込むことが容易になった。また、合作社(中国の合作社と似たようなもの)の 拡大の一助となり、男性が戦場に言っている間 女性、子どもを労働に駆り出すことができるようになり、農業生産力拡大の要因となった。

    3. 北ベトナム国民のアメリカに対する敵対心、ナショナリズムの強化
    4.  アメリカが北ベトナムに「直接」攻撃を仕掛けてくることで「アメリカを倒さなければ 自分たちに平和が無い。」という考えが北ベトナムの国民にとっての「現実」となった。 そして「ベトナム人は連帯してアメリカと戦おう」 「同じベトナム人である南ベトナムをアメリカ人の魔の手から救い出そう」 という思想が力を持った。このことで、戦争を戦い抜くために、 貧しさを我慢し、助け合って戦争に協力することが当然となり、これが北ベトナムの強硬な姿勢を 支える基盤となった。

地上戦とその問題点

アメリカ陸軍の戦略思想
 アメリカの地上戦における戦略は「索敵撃滅戦略」と呼ばれるものである。 米軍が誇る火力と機動力を発揮して、相手の主力部隊を補足しそれを撃滅するというものであった。 その戦略の根底に流れるものは、敵の人的補給を上回るペースで人的損害を与えて勝利を目指す 消耗戦略であった。この戦略は通常戦争型のものであり、アメリカ陸軍の伝統的な戦略でもあった。  アメリカは後期ベトナム戦争の前半(1965〜68)はこのスタイルを押し通した。

問題点


1 平定戦略の軽視

 アメリカの索敵撃滅戦略は、農村をゲリラの手から保護してその保護地域を拡大していく「平定戦略 (または拠点戦略)」を副次的なものとし、あまり重視しなかった。現実問題として、アメリカ軍 をいくら投じても、広い農村地域を守り切ることはそもそも不可能であったし、農村の平定は 本質的に南ベトナム軍が行わなければならないことであった。しかし、農村地域を軽視したことで、 農村を拠点としたゲリラの活動網を寸断できず、結果としてゲリラの撃滅を完遂することができなかった。
 また、アメリカは度重なる農村平定策(戦略村など)の失敗から「平定作戦」 を行うことが無理であると判断し、「村を守るために村を破壊する」 という作戦を採った。具体的には、NLF側の勢力化にある村落地区を「自由爆撃地域」に指定して、 地上及び空からの火力集中することで、その地区の農民をサイゴン政権軍の支配地域に移住せざるをえない 状況に追い込む方法である。こうした戦略がさらに南ベトナム農村のアメリカに対する反感を煽り、 ゲリラと農民の分離を困難なものとした。そして、都市部に流入した土地をうしなった農民は難民となり、 NLFの潜在的な人員供給源となった。

2 消耗戦略の破綻

アメリカの消耗戦略は、相手の人員補給能力を上回るペースで消耗させることが前提である。
では、実際の戦闘人員の推移を表で見てもらいたい。

革命側の兵員補充と死亡者
新規補充消耗増減サイゴン政権側消耗
1965116595713
1966172928018
1967143 141223
1968305 2624344
1969156244-8832
1970115161-4628
1971119147-2825
1972158192-3440
累計12841298-14222
(単位千人)出典 「ベトナム戦争の記録」

 サイゴン政権側と革命側の消耗比はおよそ1:5〜8となっている。従って消耗の割合では問題ない。
 だが、革命側の新規補充能力はその消耗をさらに上回るものであった。
 これは北ベトナムの動員体制(年間20万人が徴兵可能年齢に達しており、人的に余裕があった。) や、サイゴン政権に対する反感を利用した南ベトナムでのゲリラ補充の成功が大きな要因として 挙げられる。

北ベトナムが強かった理由
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This page is written by SUZUKI Kentarou. Mail to suzuki8@dolphin.c.u-tokyo.ac.jp